気休めの音楽を流す

ふたりに夢を見つついまさらどんどん沼に沈む

作品に見いだされる才能の所在について

なんか小難しそうなタイトルつけちゃったけど、大したことはない、だいたい剛さんのことです。

KinKiのことあまりよく知らなかったけど、知って衝撃を受けたことの一つには剛さんという才能がある。

今まで、絵画でも音楽でも表現されたモノっていうのは、創りだされたモノのみですべてを語るものだと思っていた。つまり、作者はそれほど重要じゃない。作者のパーソナリティや作品のバックグラウンドは、私はその作品の補強的な立場を超えないものの程度にしか考えてなかった。だいたいそうなんだよ。作った人が誰か分からない状態でも、素晴らしいものは素晴らしいし、それを作った人はそういう素晴らしい才能の持ち主なんだ、ということは自明の理なんだ。

でも、私が剛さんのことを知って目が覚める思いだったのは、そのプロセスの逆をいく例があるっていうのに気付かされたからだ。

剛さんの場合は、作品と作者という関係があるとしたら、主体性が作者の方にある。表現されたものが美しいと認識されるよりも先に、堂本剛がそのように表現したことが美しい、という結論が来てしまう。ネームバリューとかそういう単純なものじゃなくて、「彼が表現する」という行為に焦点が当たる。才能の見いだされるポイントが、作品の方ではなくて、作者の方にある。主体性が剛さんの方にある。

上手く伝えられてる自信がないんだけど、例えば、この画家はこういう作風でこういった題材をよく描く、と言う。剛さんはこういう場合、彼自身が「一つの作風」なんだと思う。しっかりと確立された一つのファッションブランド、とかのが分かりやすいかな。いや、でもイメージ的には「作風」のが近いけど。

こういった表現の仕方をする傾向がある、といったときの「一つの傾向」が剛さん。うーん、伝わるかな…。

まあ、何が言いたいかというと、剛さんからは「一つの傾向」「一つの作風」になることの勇気をもらえる。

生み出した「モノ」に意味を見出す、んじゃなくて、「自分」が生み出すという「行為」に意味を見いだせるようになる。「結果」でも「過程」でもなくて、そこに行き着くまでに私が生み出した「流れ」とか「はたらき」。

ブログを始めたのも、実際、目の前が開けたように分かったからだ。勇気をもらって、救われた気がして、ヘタな文章と分かっていながら、自分の中で渦巻いてる水の流れを外に流してやる作業をして、今、思考がのびのびとしてる。気がする。もっともっと感性を刺激してやりたいと最近は思う。とてもいい流れ。

剛さんもそうだし、光一さんもまた別の才能を持ってるし、いろんな人がいろんな才能を持ってる、と思うととてもワクワクする。楽しい。この考え方は、今の人をキャスティングするような仕事に就いたことも大きいのかもしれない。人間だから、どんなことにも影響を受けざるをえないんだな~と思う。